メディアも子どもを支える 「少数」の心、考えたか
2014年2月4日 共同通信
連続ドラマ「明日、ママがいない」(日本テレビ系)には放送前から何も期待していなかった。これまでもいくつかのドラマの設定に、児童養護施設が組み込まれたことはあったけど、きちんと描かれたことはなかったと思うから。
私は小学3年から18歳まで児童養護施設で育った。親のネグレクト(育児放棄)が理由だ。
ドラマを最初見たとき、これは施設の中ではないと思った。施設長の暴力や暴言、ホラー映画のような洋館、本来、知るはずのない子どもの生い立ちを示すあだ名、虐待をしてしまった親と簡単に逢えてしまう等・・・。あまりにも現実と違いあぜんとした。
施設の子だからピアノなんて弾けないだろうと周囲の子どもが責め立てる場面では、まだ整理できていない自分の劣等感を責められているような気がして苦しくなった。
虐待などで心に深い傷を持つ子どもが見たら―。そんなことは、考えなかったのだろうか。実際、深刻な影響があったと聞く。そのフォローは誰がするのだろう。フィクションだからと多数の人に受けることを優先し、少数のことを突き放しているように思う。
ドラマとはいえ、見る人は、ある程度は事実に基づいていると思うはずだ。繊細な問題を扱うには、それなりの準備が必要だが、きちんと取材をしたとは思えない。
子どもの目線から、心情を描いている部分など共感できるところはある。実際、私もうるっとした場面もある。だからこそ、もっと丁寧に描けば、抗議を受けるようなことにはならなかったと思う。ドラマの子役もつらいだろう。自分の演技が社会的な問題になっている。演じさせているのは大人なんだけど。
児童養護施設などの社会的養護は、子どもを守る最後のとりでだ。虐待やドメスティックバイオレンス(DV)だけでなく、経済的事情から子どもを預けざるを得ない親もいる。施設がドラマのような酷い場所だと誤解すれば、預けることをためらわないか。それは、子どもの命に関わる。
ドラマでは、周囲を頼らない、たくましい子どもが描かれている。でも、子どもは誰かに認められたり、受け止められたりするから、たくましく生きられる。この「土台」がなければ、いつか崩れてしまう。土台を支えるのは親であり、周囲の人であり、施設職員や学校の先生たちだ。メディアの情報もそうだろう。社会的養護を必要とする、決して少数ではない子どもたちを支える役割を、ドラマも担っているはずだ。(日向ぼっこ代表理事、談)
わたい・たかゆき 児童養護施設や里親家庭を出た若者の支援や居場所づくりをするNPO法人「日向ぼっこ」(東京)代表理事。ヴォーカルグループ「VOXRAY」メンバーで、音楽活動と平行して児童養護施設でコンサートを行う「たいようのたね」という活動をしている。